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コオロギ食を推進する人たちの本音を考える

近年、コオロギなどの昆虫を食べることを推進する向きがある。しかし、なぜそのような動きが出てきたのだろうか。コオロギ食を進めている政府・企業・メディアなどに言わせればコオロギは「未来の食べ物」で「環境にやさしい」らしい。また将来、人口増加によって食糧難が起きるから、多くの飼料や水を必要とする畜産ではなく昆虫を食べる必要があるのだとも言っている。彼らのこうした「虫を食べる必要性」の説明が個人的にどうも釈然としないのだ。

現在行われている畜産が多くの飼料や水を必要とする、あまり持続可能なものでないというのは分かる。農産物の輸出大国であるアメリカの農業は、いつか枯渇してしまう有限の地下水を利用しているという話は聞いたことがある。確かに現在行われているような畜産業はいつまでも続かないのかもしれない。しかし、だからといってなぜ昆虫なのだろうか?

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魚や豆があるのになぜ昆虫?

タンパク質を摂取するための食べ物は別に畜産によって得られるものばかりではない。魚や豆という選択肢もあるはずで、実際にそれらは昔から一般に食べられてきた。なぜそうしたものを飛び越えて、いきなり日本人にとってそれほど馴染みがあるわけではない昆虫になってしまうのだろうか。

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人口増加で食糧難が起きるから昆虫を食べないといけない?

また、人口増加によって食糧難が起きるという説明もよく分からない。人口が増えればそれだけ食料の消費も多くなり、人々が食べ物にありつけなくなるという説明は一見それらしく聞こえる。しかし現実の世界はそういう仕組みにはなっていないはずだ。

人口増加によって食糧不足が起こるとすれば、その被害を受けるのは貧しい国の人々だろう。日本のような裕福な国であれば、仮に国内で自給できる量以上の食料が必要になっても、他国から輸入することで賄うことができる。

日本では少子化によって人口が減少しており、日本と食料の争奪を行えるような経済力のある先進国も軒並み少子化傾向にある。つまり、「将来、人口増加によって食糧難が起きる」から虫を食べねばならないという主張は日本人にとっては現実的ではないのだ。

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昆虫食推進派の本音は何か?

昆虫食を推進する人々が理由として挙げているものはどれも「ふわふわ」しているように感じる。「未来」「地球に優しい」といったいかにも聞こえの良さそうな言葉を並べ、「環境にいいから」「来るべき食糧難に備えるため」といった一見それらしい理由をつける。だがそれはどれもはっきりと納得のいくものではない。となれば隠している本当の理由があるのではないだろうか。

それが何なのかを想像してみると、やはりそれは「政治的な企み」なのだろうと思う。近年、政府による「環境保護を経済成長のエンジンにする」といったような発言をよく聞く。従来、地球温暖化対策といった環境保護の取り組みは経済成長を阻害するというイメージを持たれてきた。その発想を改めて、「環境保護の取り組みが経済成長につながる」という考えに転換するべきだという動きが世界的に起きている。日本の政府・与党の政治家もそうした動きに迎合し、日本が積極的に「環境保護による経済成長」に取り組んでいると世界にアピールする必要があると考えているのだろう。そして彼らにとってそのロールモデルとなるのが昆虫食なのだと思う。

これには新しい昆虫食ビジネスが生まれることで経済への好影響があると踏んでいるのと、世界的な環境保護の流れに日本が「遅れている」と見られるのを恐れているという2つの理由が考えられる。特に後者は、環境政策を強く打ち出しているアメリカのバイデン政権との関係と、海外からの批判を特に気にする「海外出羽守」が多い日本国民からの評価というさらに2つの意味があるのだろう。こうした理由から政府は経済界やマスメディアと組んで昆虫食キャンペーンを大々的に打ち出している。というのが実態なのではないだろうか。

今思えば、国民からの批判の多かったレジ袋有料化もここまで強引に進めた理由は海外の流れに迎合したからなのではないかと思う。当時、環境大臣だった小泉進次郎が思いつきで始めたなどとも言われていたが、どうやらレジ袋の禁止や有料化は世界的に行われているようで、結局はそうした海外の状況に従わざるを得なかった。だから進め方も強引で、国民から撤回を求める声が上がっても撤回しないのだろう。そして今回の昆虫食も同様だ。

この昆虫食ムーブメントは日本に限った話ではないようで、元々は国連の機関が食糧不足への対策として挙げたものが昆虫食であったらしい。どこまで本当なのか分からないが、世界でも昆虫食は注目されているという話も耳にする。「人口増加による食糧難」などという日本の状況にそぐわない理由が昆虫食を勧める理由として挙げられているのも、元々全世界向けの昆虫食推進の理由をそのまま並べているからではないのか。

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コオロギ食は危険だから反対という「ズレた」批判

コオロギ食キャンペーンへの批判として多いのが「漢方の書物にはコオロギは微毒があり危険とされている」とか「日本ではこれまで食べられてこなかった」というコオロギを食べることの危険性を訴えるものだ。まずこの主張に対して疑問に思うのは、コオロギじゃなければいいのか?ということだ。こうした批判は、例えば「ならコオロギじゃなくてミルワームで」などと言われればたちまち意味を失う。私の印象としては、コオロギ食に反対している人の多くは、コオロギだから反対なのではなく、昆虫食そのものに反対しているように見えるのだが。

そもそもコオロギの毒性云々についてはあくまで食用として然るべき生産がされてこなかった時代の話であって、現代に食用として生産されるコオロギに当てはめるのは無理があるだろう。コオロギ食反対を訴える者のこうした批判は、はっきり言ってズレている。

私がコオロギ、というより昆虫食のゴリ押しを快く思わないのは、政府・経済界・マスコミといった社会の上澄みにいる者たちが、「カネ目当て」な動機や、「海外の流れ」に迎合するためといった本音を国民に隠しながら、自分たちの都合のために政策を強引に進めているように見えるからだ。コオロギに微毒があるなどという表面的な部分を批判をしていても何も変わらない。このようなことを許していれば、日本はどんどん主権国家としての自律性を失い、必ずしも日本人の意識に合わない欧米の価値観を押し付けられ続けることになる。そもそも国民の意見を聞かずに自分たちの都合を押し付けることしかしない政府など存在そのものが害悪だ。こうした流れを変えるためにも、コオロギ食を巡る騒動で国民は政府・与党にはっきりとNOを突きつける必要がある。

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時評