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人々はコロナよりも周囲の目を恐れている

世間一般で行われている「感染対策」が、感染対策としての効果からみて矛盾していると思われる状況をよく目にする。例えば外では屋外を含めてほぼすべての人がマスクを着用しているにもかかわらず、飲食店では多くの人がマスクを外して会話している。テレビでは芸能人はマスクをしていないのに、一般人は皆マスクを着用している。大勢の集まるコンサート等は規制されているのに、満員電車はコロナ以前と変わらない、といった状況だ。

こうした状況が起きてしまう理由はもちろん1つではないだろう。しかし、多くの人が実際の感染対策としての効果よりも、それをしないことで周囲からどう思われるかを気にしているからという部分が大きいのではないだろうか。この店は感染対策を行っていないと非難されるのは嫌だから、とりあえず入口にアルコール消毒液を置いたり、パーティションを設置したりする。暑いからマスクをしたくないけど、陰謀論者の類と思われたくないからとりあえず顎マスクでいる。

これは必ずしも行政やメディア、専門家が感染対策を推奨しているからではないと思われる。例えば会食中、食べ物を口に入れる時だけマスクを外して、口に入れたらまたマスクをするといういわゆる「マスク会食」は専門家、行政、メディアが揃って行うよう勧めていたにもかかわらず、実態として行っている人はほぼいなかったように思える。なぜマスクやアルコール消毒には従うのにマスク会食には従わなかったかといえば、恐らくそれを行う労力と、行わないことで被る非難のバランスを考えたときに、行わない方が労力が少ないという判断を多くの人がしたからだろう。

内心ではこんな対策に意味があるのかと疑問に思っていたとしても、それをしないことで非難を受けるよりは、多少手間でも周囲に合わせておくほうが最終的な労力としては少なくて済む。コロナ対策に対して特別に批判的な人であればそうした対策をあえて行わないという選択をとることもあるだろう。しかし全体としてはそうした人の割合は、コロナ対策を肯定している人や、特に意見のない人に比べれば少数であるはずだ。

多くの人にとって感染対策は純粋に新型コロナウイルスの感染を防ぐことよりも、「自分は感染対策をしていますよ」という意思表示の意味合いが大きいのではないだろうか。言い換えれば自分は「配慮の欠けている」人間ではないという意思表示だ。逆にそれをしなければ「配慮の欠けている」人間と思われる可能性がある。だから無意味と思っていてもとりあえず「感染対策」を行う。コロナ対策は感染対策としての実態から乖離して、ある種の「思いやり」「マナー」的なシンボルになってしまっているのではないだろうか。

最近では主要メディアもマスク着用しなくていいという主張に変わってきているが、実態としてはほぼ全ての人が外出時にはマスクを付けている。欧米では既にコロナは過去のものとなっているという話を耳にする。日本でも流れとしては脱コロナに向かっているように思われるが、それにもかかわらず感染対策が以前とそれほど変わらないのは、感染対策がコロナとは無関係の「マナー」と化しているからではないだろうか。

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