2025年11月24日、東京都足立区の路上で盗難車が暴走、歩行者らを次々とはね80代の男性、20代の女性の2人が死亡。10~70代の男女9人が重軽傷を負った。
肝心の犯人なのだが、現在これが37歳の無職の男、としか報道されていない。普通であればこれだけの大事件なのだから逮捕された時点で実名が出されるはずなのだが、今回の犯人は精神科への通院歴があり、刑事責任能力の有無を調べる目的があるとして警視庁が氏名を発表していないのだ。
ネット上ではこの対応はおかしいという声が多く見られるが、筆者も同感だ。
なぜ実名報道されないのか?
前提として、警察には犯人の実名を公表することを義務付ける法律や、逆に公表してはいけないという法的な裏付けがあるわけではない。あくまで警察の裁量によって犯人の実名が発表され、その発表をマスコミがさらに自社の裁量で報道するという流れになっている。
今回、刑事責任能力の有無が不明な犯人の実名を出さない理由を警視庁は説明していない。だが、「精神病者への人権配慮」が理由と見ていいだろう。
刑事責任能力がないと判断され無罪になる可能性があるから、という説明もあるが、そうであるならなぜ健常者とみられる人物に対しては無罪推定の原則を無視して実名を公表しているのだという話になる。実際に逮捕時に実名が発表された犯人が裁判で無罪になったというケースはいくらでもある。
精神障害者は殺人でもない限り実名を公表されない
今回のように精神疾患を持っていると考えられる人物の犯罪は殺人のような重大なものでない限り匿名で報じられるケースがほとんどだ。
一例をあげると2023年1月にJR山手線内で20代の女が男性4人を刃物で切りつけ重軽傷を追わせた事件。この犯人の女は精神疾患があると警察に話しており、現在に至るまで実名報道がされていない。電車内における刃物での無差別傷害というかなり衝撃的な事件にもかかわらずだ。
そしてこのようなケースでは後にどういう処分で終わったのか、などの続報もされないのがもっぱらだ。
「健常者」であればちょっとしたことでも実名報道される
対して「健常者とみられる被疑者」であれば、わざわざ実名を出すほどとは思えない事件、かなり情状の余地がありそうな事件であっても簡単に実名報道されるケースが多くみられる。
こうした警察・マスコミの対応は障害者というものをタブー視する空気や、「社会的弱者」への弾圧だという批判に迎合した結果なのだろう。だが精神疾患による影響があるとはいえ犯罪は犯罪であり、被害者が受けた被害が変わるわけではない。精神障害があるというだけでここまで過剰な配慮がされるのは公平性を欠いているし、正義にも反する。
被害者はすぐに名前を晒される
今回の事故では死亡した被害者はすぐに実名報道がされている。一般論として、おそらく実名を公表する警察・マスコミからすれば被害者というのは「なんの落ち度もない可哀想な人」という扱いだから実名を公表してもいいという考えなのだろう。
必ずしも被害者は「なんの落ち度もない可哀想な人」ではないし、落ち度がなくても実名を出されたくないケースもある
だが事は必ずしもそう単純ではない。事件においては被害者にも落ち度があるケースは珍しくないし、そのためにネット等で誹謗中傷に遭うことも珍しくない。
また被害者に落ち度がなくても何らかの理由で実名を出されたくない(と考えるであろう)状況もある。
たとえば2021年に東京都立川市で派遣型風俗の女性従業員がホテルで刺殺された事件では、犯人は19歳の少年であったために実名報道がされなかった1例外的に週刊新潮のみ実名・顔写真を掲載したにもかかわらず、死亡した被害者は風俗店員という公表されたくないと考えてもおかしくない立場であるにも関わらず実名報道を行った無神経なマスコミも多かった。
さらには過去に当サイトがまとめた大東市女子大生殺害事件のように、死亡した被害者におおよそ落ち度がなかったにもかかわらず憶測・流言によって誹謗中傷を受けるケースなども存在する。
こうした理由から被害者の実名は無条件に出していいものではないと考えられるが、警察やマスコミはそうした意識が希薄なようだ。犯罪者に対する手厚い人権への配慮と比べると随分アンバランスではないか。犯罪者がその被害者よりも人権に手厚く配慮される状況は異常というほかない。
垣間見える「死人は名前を出しやすいから出したい」という意識
一般的に犯罪者の実名報道は左翼・人権派といった層からの批判に常に晒されている。精神障害者など社会的弱者によるものであれば尚更だ。対して被害者の実名報道はこれまでほとんど批判されてこなかった。
そのため警察もマスコミも被害者の実名報道にほとんど注意を払ってこなかったのだろう。2016年の津久井やまゆり園事件では被害者遺族の意向で実名を公表しなかった警察がマスコミから猛批判を受けている。
さらに2019年の京アニ放火事件では遺族の意向に反してマスコミが実名報道を行ったため、ネット等で大きな批判を受けた。だがマスコミはこうした批判に反駁し自らの実名報道を擁護している(加害者の実名報道に対する消極的な姿勢とは大違いだ)。
その論理として日本新聞協会の主張をあげると「被害に遭った人がわからない匿名社会では、被害者側から事件の教訓を得たり、後世の人が検証したりすることもできない」 というものだ。2他にも「被害者の無念、遺族の悲しみを社会で共有するため」などというものもあったが、余計なお世話だし、遺族は公表を望んでいないのに何を言っているんだという話だ
だがこの説明ではなぜ加害者を匿名にすることは許されるのかという疑問に答えられない。
要するに犯罪者は生きていて人権があるから匿名にして、被害者は死んで人権がないから実名を晒してもいいということだろう。これだからマスコミは嫌われるのだ。
実名公表までの仕組みに問題がある
とはいえマスコミはあくまで(一応は)私企業である。警察から発表された被疑者や被害者の個人情報をどうするかは各社の裁量に委ねられていいだろう。
問題は最初に被疑者・被害者の実名を公表する警察だ。先述のように警察は何らかの法的根拠があって実名の公表を行っているわけではない。つまり何を公表をしようがしまいが警察の勝手というわけだ。まずこのあり方が問題だろう。
さらに問題なのは警察が被疑者・被害者の個人情報を発表するのはもっぱら大手メディアが独占する記者クラブにおいてであることだ。記者クラブも何らかの法的根拠があって設置されているものではない。
つまり、警察が法的根拠なく被疑者・被害者の情報を、同様に法的根拠のない記者クラブという場で大手メディアに公表しているという、全てにおいて「なあなあ」の状態になっているのだ。
個人的には犯罪者の実名報道はあるべきだと思っている。だが現状のように制度的な裏付けなく警察とマスコミが勝手な裁量で行っている実名公表の状況はどうにかすべきだ。
法的根拠を持った公表の制度を作り、何を公表し何を公表しないのか、どの段階でするべきかの指標を制度に組み込んだ上で、記者クラブではなく行政が直接社会に公表するべきだろう。
