63歳が無謀運転で女子中学生を植物人間にする事故
去年8月に山形県の酒田市で63歳の男(佐藤幸史・無職・酒田市東泉町4丁目)が横断歩道を渡っていた女子中学生を車ではねて意識不明の重体にさせるという事件があった。佐藤は前の車が横断歩道を渡っていた被害者を待ち停車していたにもかかわらず、それを追い越して被害者をはねており、はねられた女子中学生は現在でも意識不明で意識回復の見込みはないと言われている。
警察は当初、危険運転罪の適用を視野にいれて送検したものの、検察は要件を満たさないとして過失運転で起訴。第一審で佐藤は拘禁刑3年6か月が言い渡されたのだが、被告側はこれを「刑が重すぎる」として控訴する。控訴審では「被害者とその家族に謝罪の手紙を送った」などと主張。しかし高裁は原判決の評価に誤りはないとして控訴を棄却している。
謝罪の手紙とは何なのか?
この事件に関しては、前の車が横断歩道の前で停車しているのだから、それを追い越すなど常識的にありえない運転であり、やったことは殺人に等しい。こんな老人は死刑か終身刑にでもなるべきだと思うのだが、それはそれとして気になったのが、被告が被害者側に送ったとする「謝罪の手紙」という代物。近年やたらと刑事事件のニュースで目にするのだが、一体何なのだろうか。
一般的には「被害者に謝罪と反省の意思、誠意を示すため」などといわれているが、「刑事事件 謝罪の手紙」といった文言で検索してみると弁護士事務所のサイトばかりが出てくる。そしてその中には堂々と謝罪の手紙が「刑事処分の軽減を目指すために必要不可欠」などと書かれているものもある。つまり被告人の側が量刑を軽くしたくて被害者側に「謝罪の手紙」を送るわけだ。こんなふざけた話があるだろうか。ご丁寧に謝罪文の雛形まで用意している弁護士事務所のサイトまであり、実際の謝罪文も弁護士が書いているか、このような雛形を用意して加害者に書かせているのだろう。
この謝罪の手紙が法廷戦術として利用されている背景には、「反省」していることに量刑を減らす効果があるという現実が存在する。ただ反省していると口にするだけでは効果としてまだ「弱い」ため、口先だけでなく行動で示してますよとアピールするために謝罪の手紙を被害者側に送りつけるわけだ。これもやはり弁護士が入れ知恵しているのだろう。実際にさほどの効果はないという見解もあるが、やらないよりはマシというわけだ。
しかし考えてもみてもらいたい、自分の家族を殺された、植物状態にされた被害者家族が、その犯人に自身の刑を軽くしたいがために「謝罪の手紙」を送りつけられるのだ。これはほとんど嫌がらせ・二次加害ではないか。もし私が被害者家族だったら、本当に悪いと思っているならこんなことをせず大人しく厳罰に処されろと思うだろう。こんなことが平気でまかり通っている日本の司法は異常だ。
実際この手の「謝罪の手紙」は被害者側が受け取りを拒否するケースも多い。旭川の女子高生殺人事件の主犯である内田梨瑚も、逮捕から2年近くが経ち公判前になってから被害者遺族宛の謝罪文を書いたが受け取りを拒否されている。
そもそも「反省した」ことがそんなに重要なのか?
そもそも、反省したから一体何だというのだろう。例えば殺人事件であれば、その償いは殺した人間を蘇らせること以外にないはずだ。捕まって反省するぐらいなら最初からやらなければいい話で、反省したことで量刑が軽くなってしまう、少なくとも量刑判断に有利になり得てしまう司法そのものがどうかしているとしか思えない。
その反省にしても、本当に反省しているのかは本人にしか分からないことだ。かの女子高生コンクリ詰め殺人事件の主犯たちも、裁判では嗚咽を漏らしたりしおらしい態度をとったりして反省の言葉を並べていたが、その反省が虚偽であったことはその後の彼らの言動が証明している。主犯格4人のうち3人が出所後に再び犯罪に手を染め、そのうちの一人は事件を笑い話のように自慢していたという。これだけ見ても公判の場で示される「反省」にいかほどの価値があるか分かろうというものだ。
刑事事件に限らず日本人は誰かが炎上すると二言目には「謝罪しろ」と言いだすが、何かあるたびに深い考えなしに「謝罪・反省」を脊髄反射的に求める精神性そのものに問題があるのではないかと思わずにはいられない。